災害時のレクリエーション支援
 レクリエーション・ボランティアに関するノウハウ  まとめ・報告
レクリエーション・ボランティアに関するノウハウ 

まとめ・報告

公開日
2020年9月7日
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2013.10.25 「3.11を振り返る」⑤
少しでも元気になってもらいたいとの思いで活動を続けていた
遠藤節子(宮古市レクリエーション協会)


あの未曾有の東日本大震災が起きた時間(14:46)、私は宮古市社会福祉協議会の身障者のデイサービス(3階に設置)でレクの時間を担当していました。立っていられないほどの揺れ。利用者をかばうように寄り添うのが精一杯でした。その日の利用者は13名で、半数は車椅子の方。停電でエレベーターが使えない状態で、歩ける人たちは手すりにつかまって職員と共に、車椅子の人は職員におんぶされたり抱えられたりして1階まで降りました。津波が来るかもしれないとのことで、2階の老人デイサービスの利用者も送迎バスに乗せて近くの高台へ避難。19時30分頃までそこで過ごしましたが、灯りもなく、車のライトを頼りにトイレなどの介助を行っていました。

幸い津波は、社会福祉協議会の建物までは来なかったため、山間部の道を通って帰宅可能な利用者を送り届け、残りの半数くらいは職員と共に泊まりました。トイレを利用するにも、3階の浴場から1階まで水を運び、ポリバケツに貯めて対応したり、エントランスホールに昼寝用の畳や毛布、ベッド等を運び込んで、雑魚寝のような形で一夜を過ごす状態です。その後も社会福祉協議会は、利用者の家族が迎えに来るまでの間、また市内で被災された方たちも受け入れ、行き先が決まるまでの間の避難所となりました。その間は、職員も交互に泊まりこみの勤務となり、ホールには多種多様の支援物資がどんどん運び込まれ、県外のボランティアにも手伝ってもらいながら被災者への物資の配給も行いました。

 レクリエーション・ボランティアに関するノウハウ  まとめ・報告(1-1)

重茂小学校の体育館での活動の様子。震災では宮古市レク協会の用具・道具も流されてしまいました。

震災から一ヶ月半が経った頃から主要道路がほぼ通れるようになり、多方面からボランティア支援も入るようになりました。ガソリンも震災直後に比べて調達しやすくなったことから、宮古市レクリエーション協会として何かをしなければとの思いに駆られました。事務局長と連絡を取り、4月29日の休日、二人でとりあえず津軽石小学校体育館の避難所へ行ってみました。管理人のような方に挨拶をして中に入ると、ほとんどの大人たちは居らず、4、5人の女子中学生と6、7人の小学生が残っていました。避難所は一家族ごとにダンボール紙等で仕切られ、生活に必要な物が所狭しと置いてあり、空きスペースはありませんでした。

子どもたちに「外で遊ぼう!」と声をかけ、校庭の遊具のあるところに誘導すると、みんな出てきてくれました。近所の子どもたちも2、3人よって来て、砂場でお互いの自己紹介をしたり、お話をしたり、ジャンケン遊びをしました。子どもたちは屈託のない笑顔を見せてくれましたが、言葉には出せないものを抱えていることも察することができ、何とも切ない思いになったことを思い出します。

5月になると、支援に参加できるレク協会のメンバーも増え、鍬ヶ埼小学校や重茂小学校、崎山の避難所へと出向きました。その頃にはレク用具も整いはじめ、子どもたちとなわとびやバッゴー、フライングディスク、輪投げ等々で笑顔いっぱいに遊びました。町の平坦部がほとんど津波に飲み込まれた田老の大規模の避難所(グリーンピア)へも出向きました。そこでは、子どもたちのほか、年配者とも折り紙づくりなどをしました。「すっかり家も流され途方に暮れた」といった話に耳を傾けることも多少は役にたったのでしょうか。想像もつかなかった大震災に遭った被災者。少しでも楽しいひとときを過ごして、元気になってもらいたいとの想いで活動を続けていました。

 レクリエーション・ボランティアに関するノウハウ  まとめ・報告(2-1)

支援活動を開始された事務局長の坂下晃さん(中央)。遠藤さんも坂下さんも社協の仕事をしながらの活動でした。

徐々に仮設住宅が出来てからは、集会所での支援活動となりました。月に1回ないし2回の割合で、市内数十カ所の集会所をまわっています。集会所に来る人たちは、「ここへ来るとホッとするんだぁ。みんなで笑いあったりしていると元気が出る!」と言ってくれます。しかし、集会所に顔を見せてくれない人たちのことも気がかりになっています・・・。

私はあの震災の二ヶ月後の5月から職場が変わり、学童保育の仕事に従事しています。ある子どもが、「うちのお父さんね、津波があってから三日もわからないでいたんだよ。死んだとばかり思っていたけど、避難所に無事に来たのでお母さんとびっくりしたんだよ」と話してくれたことがありました。その時の子どもと母親はどんなに切ない思いをし、そして安堵されたことだったでしょう。また一方で、宮古市では未だに悲しい話を聞くこともあり、何とも言いようのない思いになります。被災者にとって今後の事は課題が山積みなのですが、私たちも今できることを精一杯の支援をしていきたいと思います。
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