皆さんは、時間を知るにはどうすればよいか考えたことはありますか?多くの人は、時計を目で見て時間を知ると考えるでしょう。一般的にはそのように捕らえられていますが、それって、実は、“時計は目で見る”という固定観念に縛られていませんか?私は目が見えません。しかし、見えなくても時間を知ることができます。要するに、時計を目で見ることに縛られて、目が見えないと時間がわからないと皆さんは考えていませんか。例えば、私は携帯電話の音声やアップルウォッチの振動で時間を知ることができます。音を聞いても手で触れても別にいいんです。目が見えなくても知るすべはいくらでもある。私が知りたいことは、今何時なのか?「知る方法は目で見なくてもいいんだ」と気づいた瞬間に発想が変わりませんか?この考え方は実は、障がいをどう捉えるかのヒントにもなります。
インペアメント(機能障害)、これは私で言うと目が病気で見えなくなったこと。要するにディスアビリティ(心身の機能上の能力障害)という能力の障がいが生まれます。時間を見ることができない、字が書けないという、ハンディキャップが生じます。それは、仕事に就くことができない?結婚できない?学校に入学できないの?のように、障がいがあることがハードルになってしまいます。これは社会的に不利な状況と考えられていました。
インペアメントの解決は医学しかなく、病気を治療するしか方法がありません。ディスアビリティは教育訓練やリハビリの分野での解決方法に限られてしまう。また、社会的ハンディは、法律・条令・社会保障で解決するしかないと考えられていました。
しかし、私は大学を卒業して教師になり、今はスポーツ振興センターに勤務しています。私のように、ICIDHでは説明がつかない人たちが増えてきた。つまり目が見えないというインペアメントがありディアビリティがありハンディキャップがある人は就職できない、というモデルが、説明できなくなってきたのです。
ここに、駅で電車に乗ろうとしたときに車椅子の人がいます。このときの障がいは何だと思います?脚が病気や怪我で動かないこと。車椅子に乗っていること。この駅にエレベーターがないこと。どれでしょう?
病気やけがなどで動けない障がいや、車椅子に乗っていることが障がいであったら、この解決の手段は本人の努力でどうにかなるものではありません。医学では解決できないし、スロープやエレベーターがあれば、駅で電車に乗ることが可能になり、社会参加の機会が広がります。行動の制約を受けることがなくなります。要は、「その活動における障がいをなくすことはできませんか」と言いたいのです。
車椅子に乗っていることや脚が動かないことを障がいだととらえてしまうと、全てにおいて障がいがあることになりますが、もっと日々の場面や状況によって障がいを変えることはないでしょうか?もう一回障がいを考え直す提案をしたいし、考えてもらいたいですね。